支持の声(1)
ただ、それに関連して思いついた別の話の方がよりわかりやすいように感じましたので、そちらを先に書くことにしました。
私は息子と一緒になって少年漫画雑誌を読む”ガキ”を卒業できていない大人の一人です(ちょっとだけ弁解をしておきますが、漫画しか読まないわけじゃないですからね^^;)。
さて、少年誌にもそれぞれ特徴がありますが、私が読んでいるものの一つ、集英社の「週刊少年ジャンプ」はある意味非常に”民主主義的”な運営方針が特徴です。
この雑誌には毎回アンケートハガキが添付されているのですが、このアンケートハガキはつまるところ掲載された漫画への「投票用紙」であり、得票数の高い漫画は原則的に雑誌の前の方に掲載され、低い漫画は後ろの方に掲載されるシステムになっています。
つまり、得票が少ないと、どんどん後ろへ後ろへと移動し、最後には「打ち切り」という憂き目にあうわけです。
得票数という”数”できっちり線を引くあたり、非常にフェアではあるのですが、作品全体としての質ではなく、キャラクターのルックスや話のインパクト、あとは「馴れたパターン」などに人気が集中してしまう傾向があることや、読むために読者側にも一定の努力向上が必要になる読み応えのあるものが排斥されやすいこと、ファンによる組織票などが多いことなどにより、有望な作品がどんどん打ち切りになっていっているのも事実です。
そういう意味で、民主主義的でもあり衆愚政治的でもあります。
息子と私が気に入った漫画もしばしば打ち切りになります。その度に思うのですが、この打ち切りはとりもなおさず、私たちのような「気に入っているくせに投票しないもの」の責任・・・そう、一分の反論の余地もなく、まさしく私たち読者の責任なのです。
それもいきなり打ち切りになるわけではなく、徐々に雑誌の後ろの方へ移動して行ってからの打ち切りなわけですから、読者としても当然「危機感」は感じているわけです。いい訳できませんね。現に息子と私も「そろそろヤバイかもねー」なんてことを話していたりします。そんなことを言ってないで、続きを読みたきゃアンケートハガキを出すべきなのに。
そんな私達ですから、打ち切りが決まっても何も言えません。文句を言える立場にないのです。
息子や私と同じような立場の方は他にも大勢おられるはずです。おられて、私たち同様「そこまでする程のことでもない」と高をくくっておられるのではないでしょうか。
しかし、実際にはこの私達のような人種こそ、日本の文化レベルを下げ、マスコミのレベルを下げ、政治のレベルを下げている元凶なのではないでしょうか。
とかく、困った状況がそこにあるときには人は声をあげます。怒りの声や悲痛な叫びは容易に抑えられるものではないからです。
しかし、快適な状況がそこにあるとき、人はそれについてあまり表明しません。もちろん、快適さの度合いが極めて大きく、幾ばくかの「驚き」をともなうレベルにあるときには、さすがにその思いを表明するものですが、「そこそこ快適」である場合、あるいは「取り立てて不快な部分がない場合」など、あまりそれを伝える努力をしようとしません。
それは動物としては当然のことだと思います。
しかし、民主主義というものをうまく機能させるためには、それでは駄目なのです。
民主主義の主役はとりもなおさず国民ですが、まず国民の意思がより正確に政治に反映されるためには、まず国民一人一人の意思がきちんと顕在化されていなければなりません。多数決の原理は決して選挙にのみ働いているわけではなく、あげられた声は世論となり、世論の力は政治・政局の方向を左右しうる大きな力なのです。
現状、世論を構成するのは概ね問題点を指摘する「不支持の声」が中心になっているように感じます。いわゆる「非難」というものがこれに当りますが、非難の声は強い影響力を持ち、ごく一部の方の強い非難の言葉で多数の幸福が損なわれるという馬鹿げたことが往々にして起きています。
この責任は自らの利益のみを考えて非難の声をあげた人にあるのでしょうか?
あるいは一部の非難のみを取り上げて全体を見失った政治家にあるのでしょうか?
もちろん、その両者にも責任の一端はあるかもしれません。しかし、本当に責任があるのは、現状に満足(あるいは納得)していたにも関わらず、その声をしっかりとあげていなかった”多数”の方にあるのではないでしょうか。
少年ジャンプのアンケートハガキと同じ理屈がここにもあると思いませんか。
実は少年ジャンプの件のシステムを問題視する声は多く、そのご意見も非常に良くわかります。
代表的な意見の一つに、「メディアには読者・視聴者を育てる使命もある」というものがあります。
少年誌の読者層をお考えいただければおわかりいただける通り、基本は何せ「子供」ですから、子供には歯ごたえの勝ち過ぎるやや難易度の高い作品は、このアンケートシステムの中では排斥されがちです。その結果、「子供にもわかりやすい」レベルの漫画ばかりが並ぶことになり、そのような漫画ばかりをいくら読んでも、難易度の高い作品を読む力を養うことはできません。
もし、編集部が一定の見識を持って、「これは良い作品だから」とアンケートと無関係に掲載し続けると、それを読むだけの力を身につけて、その作品を気に入る子供もあらわれる可能性があるわけですが、少年ジャンプのシステムはその可能性を奪っているというわけです。
この見解には反論できません。全くその通りだと思います。ただ、編集部の見識に依存している辺りに危険性も感じます。
しかし、ここでもし、少年ジャンプのシステムはそのままにして、文学や芸術に一定の見識を持ったものの声がアンケートハガキに反映されるようになってきたら、これは社会全体で一つのメディアの質を支えることになるのではないでしょうか。
そう考えると、少年達が少年誌を読む事実がある以上、読書を趣味とする大人達は率先して少年誌を読み、「これだ」と思う作品に対してせっせとハガキを送ることも社会責任の一つですらあるように思えてきます。実際そうすることで、徐々に少年誌の掲載漫画の傾向が変り、少年の嗜好も変り、漫画内の文字数も徐々に増加し、日本全土を覆う活字離れ傾向にも歯止めがかかるかもしれません。
少年ジャンプのアンケートハガキのような「どうでもよさそうなこと」ですら、きちんと社会が「あげるべき支持の声」をあげることを怠らぬことで、このように日本全土の文化レベルにはっきりとした影響を与える可能性・・・おそらく可能性だけではないでしょう・・・があるのです。
私達はとかく何事もない状態にあぐらをかいてしまいがちです。
それは先述の通り、動物としてはあたりまえのことなのですが、民主主義という政治システムを掲げた国の一員である以上、それでは駄目なのです。
平穏さは間違いなく良政の証でしょう。
しかし、「ああ平穏だ」とか「そこそこ平穏だ」とわざわざ声をあげるのは今の私達の常識からすればかなり違和感のある行為です。
しかし、そのような消極的な「支持の声」もしっかりあげておかなければ、一部の方の「不支持の声」に負けて、そこそこの平穏も損なわれることになりかねません。
支持の声、それも熱烈なものではなく、消極的な「そこそこ」の支持の声をもしっかり上げていくことは、実はこの国に生きる私達にとって、とても大切なことなのではないでしょうか。
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コメント
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(A;´・ω・)アセアセ 選挙の投票なんてしないもんな~
やらなきゃいけないのはわかるが・・・一回も行ったことない
投稿: 美鈴 | 2008年10月27日 (月) 13時12分