『人生哲学 阪神タイガース的』を読んで
不思議な本である。
すこぶる不完全で偏見と独善に満ちている。その独善にキレもコクもなく凡庸だ。理屈をこねてはいるが論旨は矛盾と飛躍に満ち、悟ったようなことを書いておられるかと思えば、こだわりに満ち、検討違いなところに牙を向く俗っぽさを示す。実例を挙げて説明を試みるも、実例一つ一つの掘り下げが甘い。甘いというよりもむしろ、掘り下げるつもりなどさらさらなく、我田引水の材料として適当に見繕って持ってきたかのよう。さらに、その実例一つ一つが全く「引水」に適さず、水を引こうにも油しか出ていないようなそんな印象である。
例えば、著者のひろさちや氏は「管理野球」を嫌い、その批判のやり玉として川上監督を挙げ、今や定石となった「ノーアウトランナー1塁ならば犠牲バントで進塁させる」という戦法について、次のように述べる。
この下り、「滅私奉公」という考え方そのものを糾弾するために持ってきた話なのだが、滅私奉公の善し悪しはさておいて、ここで挙げられた脇役選手の仕事は本当に「滅私」なのだろうか。
打率の低い選手にとって、犠打によりチームに貢献できるのは誇らしく輝かしいことなのではないか。長打の才がなくとも、犠打の技を磨くことで職人として信頼され尊敬される選手への道を切り開いたのが川上野球だとも言えるのではないか。そこにあるのは「滅私奉公」ではなく「適材適所」の発想なのではないか。スターだけに活躍の場を与えたかのように述べているが、ブンブンと大振りして空振りするよりも、犠打をきっちりと成功させた方が活躍したと言えるのではなかろうか。
当然ながら、そのような観点もあってしかるべきだ。 ところが、この本の論旨からはそのような観点はスッパリと抜け落ち、「川上野球→管理野球→滅私奉公→だから駄目」と一直線にアサッテの方向に突き進む。しかもこれはこの部分に限ったことではなく、全編を通して同様であり、全て未検証のまま猪突猛進突き進む様はまさにドンキホーテのようだ。
つまるところどうしようもない本である。しかし、そのどうしようもなさこそがこの本の真価なのだ。
先程、ドンキホーテのようだと評したが、大阪で生まれ育った私にとっては、それよりももっとピタリと来るものがある。酒場で気炎を上げる阪神ファンのオヤジ達である。その偏見も独善性も、飛躍と矛盾に満ちた理屈のこねかたも、あまりにも強引に過ぎる我田引水も、まさにこの本の在りようそのままなのだ。
しかし、そのようなオヤジ達の話を聞いて楽しく笑いこそすれ怒るものなどいないのが大阪だ。
少しだけ捕捉しておく。良く誤解されているようだが、関西にも読売ファンは多い。先述の通り、私は大阪で生まれ育ったが、子供の頃、野球のチーム分けをする際に、阪神ファンと読売ファンに分けることが多かった。そうすると大体うまい具合に半々になったからだ。あとは少数の中日ファンや広島ファンなどを人数の微調整に埋めていけばきっちりとチーム分けが出来たものだ。
やや脱線したが、ようするに、大阪の酒場には阪神ファンだけではなく、負けず劣らず読売ファンもいるのだ。にも関わらず、強引で独善的な阪神ファンのオヤジの戯言にめくじらをたてるものなどいない。「アホやなー」と思いつつ、負けず劣らずアホな論議で賛同したり切り返したりする。
そこには論理もへったくれもないが、軽蔑とか憎悪も一かけらもない。筋道を通して論理的な帰結を見出す世界の対極に位置するが、そのかわり世間体や論理といったフィルターを通さない素のままのお互いがはっきり分かる。はっきり分かって「お互いアホやなー」と心の底から笑いあえる。
この時、相手の頭脳のスペックなどは全く秤にかけていない点に注意して欲しい。別にお互いに論理的な思考ができるかできないかを評価しているわけではないのだ。ただ素の部分をさらけ出せることを評してアホと呼ぶのであり、さらけ出した”素”の部分の筋の通らぬ人間臭さを評してアホと呼ぶ。
その意味において、この本自体がアホであり、阪神ファンのおやじの在りようを書籍の形にそのまま具現化したような存在になっている。そう思ってもう一度この本を振り返ったとき気づく。文章が指し示すその内容ではなく、独善的で出鱈目な我田引水ぶりと、それを臆面もなくさらけだすそのアホさにおいて阪神ファンをそのまんま体現して見せている点こそがこの本の不思議さであり、価値なのだと。言って見れば、この本は阪神ファンについて説明しているのではなく、この本自体が阪神ファンそのものなのだ。
それを前提に読むとき はじめて、「阪神ファンであり続けるという修行を通して哲学者になった」という著者ひろさちや氏の人生哲学が見えて来る。見えて来てスーッと何かが楽になる。
少しだけ、内容にも触れておこう。
ひろさちや氏は勝ち負けなどにこだわらず、あくせくせず楽に生きてはどうかと提案する。私自身は勝ち負けにこだわる生き方も好きだ。「何を勝ちとし何を負けとするか」の基準さえ間違わなければ、勝ち負けへのこだわりもまた人を幸せにする力だと信じている。しかし、一方ファンの在り方として、氏が何度も引用する氏自らの次の句には大いに共感する。
それはもちろん勝ってほしい。勝ってほしいが、結果的に勝とうが負けようがそんなことと無関係に好きでいられる。これこそがファンの在り方であるし、常に心の平安を保つ人生の極意だというわけだ。
この点、何も阪神ファンに限ったことではないと思うのだが、とかく”ここぞ”というところで期待を裏切られ続けながらも阪神ファンでいたものは皆、既にこの境地にいるというのが著者ひろさちや氏の主張である。
ひろさちや氏もまた阪神ファンでい続けるという”修行”を通して、その境地にたどり着き、そこに人としての在り方の本質を見出しているのだ。
阪神やプロ野球についての蘊蓄を得ようと思われるなら、この本は対して役にはたつまい。しかし、人生で壁に当たっておられる方、とりわけ人間関係がうまく行かず閉塞状態にある方にとっては一条の光になるかもしれない本だ。阪神ファンはもちろん、そうでないかたにも、野球のルールすら知らない方にも楽しめる内容になっている。
ぜひ、下の表紙画像をクリックして詳細を御覧ください。
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