名探偵の特別保護国ニッポン
私立探偵なのに、どういうわけか行く先々で奇怪な殺人事件に巻き込まれ、それを明快な推理で解きあかす。
そんな名探偵は世界的にはもう殆ど絶滅危惧種だということを御存じでしょうか。
密室殺人や、隔離物(孤島で海が荒れているとか、山の上の洋館に至る一本道の途中が崖崩れになっているとか、吊り橋が落ちている等の事情で隔離されてしまった空間の中で殺人事件が起きる話)も、時刻表トリックも世界的には見向きもされないジャンルになっているようです。
事情は色々ですが、つまるところ、最早そのようなジャンルで読者を驚かすことは困難だということなのでしょう。
だって、古典ミステリーをそこそこ読んだ読者ならば、密室で人が死んでいたら、「ああ、何らかのトリックを使った殺人なんだな」と考えてしまいますし、山の上の洋館に人が集まれば「きっと何かの事情で隔離されて殺人が起きるのだな」と考えます。殺害時刻に遠隔地にいたというアリバイを持つキャラクタがいれば、「ああ、こいつが何らかの時刻表トリックでそこに行って殺したんだろう」と考えます。
もう、およそ物語の骨格が見えてしまって、些細なトリックをどういじくったところで、大したものは出来ないのです。
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ではなぜ日本では、これらの最早「博物館行き」のはずのジャンルのミステリーが未だに需要を保ち続けるのでしょうか。
単純に言えば、古典ミステリーを知らなければ使い古さされたネタでも楽しめるということにつきます。
ミステリーファンには最早退屈な使い古された密室ネタであっても、「金田一少年の事件簿」や「名探偵コナン」などで初めてそれに出会う子供には新鮮な驚きを持って受け入れられることになるわけです。
・・・しかし、これでは、日本でだけこれらのジャンルに需要があることの説明にはなりません。
なぜなら、そういうことであれば、どの国であっても事情は同じで、古典ミステリーの焼き直しのような作品をどんどん作れば、若い世代には受け入れられるはずなのですから。
ではなぜそうしないのか。
最近、日本のTV番組では、しばしば中国における著作権意識・知的所有権意識の低さが取り沙汰されます。ディズニーランドや日本のアニメのパチ物や、ハリーポッターのパクリ小説などが出回る度に日本のマスコミは大騒ぎをして、中国を非難します。
しかし、ほんの数十年前は日本も全く同じ状態でした。
そこから徐々に知的所有権についての考え方が浸透して、中国の現状を笑うまでになりました。
では、日本において知的所有権意識が低かったのは最早過去のことなのでしょうか。
断じて違います。いまだに意識が低いからこそ、過去の偉大な名探偵の偉業を、ほんの少し細部を変えて自らの探偵の業績にしてしまうことに躊躇がないのです。
考えてもみて下さい。
「金田一少年の事件簿」しか読んでいない少年(最早、大人も沢山いますが)が、ホームズを読んで「ああ、こんな話はもう知ってる。ツマラナイ小説だな」という感想を抱くことは十分に考えられることなのです。これはもうコナン・ドイルに対する冒涜ではありませんか。
つまるところ、古典ミステリーが提示している価値については、古典ミステリーから受け取るべきで、いやしくも新しい作品を出すのであれば、はっきりと別の新しい価値をもった作品でなければならないはずです。
もちろん、作家はあの手この手で新しい価値を生み出し続けてきたのですが、最早、「名探偵物」の形式で、古典ミステリーにない新しい価値をもった作品を生み出すことは困難だと考えられるようになって来ているのが世界におけるミステリー界の現状なのです。
現代のミステリー界においては、「名探偵は死んだ」と言っても過言ではない状況です。
そんな中、過去の名探偵と大差ない推理を繰り広げる名探偵が未だに活躍している我等がニッポンの現状は決して世界に対して胸を張れるものではないことをぜひ知っておいて下さい。中国のパチ物ハリーポッターを笑える立場にないことを自覚して下さい。
さて、そんな中、私がそれでも注目すべきだと考える日本の名探偵を二人挙げましょう。
御手洗潔(みたらいきよし)と、天下一大五郎(てんかいちだいごろう)です。
前者は島田荘司氏の作品ですが、この新しい価値を生み出すことが困難なジャンルに真っ正面からぶつかって、独自の価値を生み出すことに成功している希有な例です。
後者は最近ドラマ化もされたので御存じの方も多いと思いますが、東野圭吾氏の作品であり、このジャンルに挑む作家の苦悩を見事に逆手に取った啓蒙的な作品です。
もちろん、両シリーズとも大変面白く、読み応えがあります。
しかしながら、御手洗潔はやがて探偵業を単なる凡人である親友に任せ、自らは別の世界に羽ばたきます。そして、任された親友は苦悩しながらも御手洗から学んだことを活かし、見事に名探偵の役割を担い続けるのです。これはあたかも「名探偵」も一つのシステムに過ぎず、学べば学べる技術であり、とびぬけて優秀な個に依存する力ではないという主張にも見え、ひいては「名探偵」なるものの価値そのものを否定しているように思えてなりません。
天下一大五郎に至っては、作中人物がもはや「名探偵」の価値が失われつつあることをハッキリと自覚しており、それでもなんとかその価値をつなぎ止めようと躍起になっています。
現在において、「名探偵」の価値が失われていることを自覚しないで(あるいは自覚しながら見ないふりをして)刊行・放映される名探偵物ミステリーはもはや作品ではなく商品であると考えるべきなのではないでしょうか。
日本は今や絶滅危惧種である名探偵の特別保護国の体を成しています。
もう一度言わせて下さい。これは決して威張れることではなく、日本における知的所有権意識が中国と比較しても「ドングリの背比べ」であることの証なのです。
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コメント
この記事へのコメントは終了しました。
ともたんの中では名探偵といえば
「シャーロック・ホームズ」と「金田一耕介」って思いうかびますが~
「御手洗潔」って聞き覚えがあります~
推理小説好きなので知らずに読んでいたかも~
「天下一大五郎」はちょっとしりませんが・・・
「名探偵コナン」も「金田一少年の事件簿」も好きなんですけど~(^^ゞ
コナンの名前自体江戸川乱歩とコナンドイルから
盗って付けた名前ですよね~^_^;
読む見る分にはとても楽しんでいるので
のんきんぐさんのような考えにはともたんの場合
あてはまらないかな~?(A;´・ω・)アセアセ
投稿: ともたん | 2009年8月29日 (土) 20時26分